ヘアサロン領域
2012.09.07
大阪でヘアサロンの店長を勤めた後、もっと広い世界を見たいと渡米。アシスタントから勉強をし直し、現在NYで3店舗を経営する「Lotus(ロータス)」のオーナーとして活躍されるAyaさん。夫であり、ビジネスパートナーでもある潤一さんとともに、来日時に日本とNYの美容師観の違いや、今後の日本美容の可能性まで、多岐にわたるお話を伺いました。 ※ご家族で来日された日に、インタビューをさせていただきました。写真は、パートナーの潤一さんとAyaさん。
PROFILE
小出 淡也子(Aya)
3月18日生まれ。O型。 大阪出身。大阪美容学校卒業。早くから美容師として元大阪で働き、1996年にNY渡米。2002年にダウンタウンイーストビレッジで椅子3脚のサロン「Lotus(ロータス)」を出店。結婚・出産を経て、現在、夫・潤一さんとともにNYに3店舗を経営。8歳の女の子の母でもある。2012年3月から、アメリカで出会ったオーガニックヘアープロダクト「ユフォラ」を日本で販売開始。多くのヘアスタイリストから支持され好調なスタートを切っている。
|第1章|直感で飛び込んだNYで、アシスタントから修行
野嶋 現在、NYでサロンを経営されるお二方ですが、Ayaさんはもともと日本で美容師をされていらっしゃったんですよね?
Aya 大阪で長いこと美容師をやっていました。
野嶋 海外で働くようになったきっかけは何だったのでしょうか?
Aya もともと海外旅行が好きだったんですよね。若いときから、海外の風土をもっと見たい、感じたいと思っていました。日本にいると日本人のお客様しか担当できない。もっとダイナミックに世界を見てみたいなあというのがありまして。
野嶋 それで、ニューヨークNYに?
Aya はい。いろんな場所を旅行をしている間に「NYって面白い! 人を受け入れる土壌もあるし、できる人はできると認めてくれる懐の広さもあるし、ここに決めたっ!」という感じです。
野嶋 直感ですか?
Aya そうですね。日本で14年やっていましたから、飽きちゃったというのもありましたし、少し先が見えてしまった部分もあったと思います。NYでひと旗あげようという野心があったわけではなく、ここに住んだら気持ちがいいだろうなあというのが原点ですね。
野嶋 渡米の前にはいろいろ段取りが必要でしたよね?
Aya そうですね。お金も稼がなくてはいけないし、生活もしていかなきゃいけないし。それで、まず弁護士を雇いました。自分の美容の経験を生かしてNYで生活したいと。そうしたら、その弁護士が、「あなただったらキャリアもあるし、グリーンカード取得もうまくいくんじゃないか」と。時代も時代ですからね。15年前でしたから。ビザも順調にとれました。
野嶋 NYでは、すぐに自分のお店を持たれたんですか?
Aya いいえ。最初は言葉もできないので、まず日本のサロンに入りました。日本の従業員を通じて少しずつアメリカを見ていくという感じです。そしてそれにも飽きてきたころ、「アメリカに来たからにはアメリカの一流サロンで一からスタートしたい!」という美容師の職人気質がむくむくっと。 ですから、遊び半分の気持ちで行ったにもかかわらず、一から美容をやることになりまして。Warren-Tricomi(ウオーレントリコミ)という当時大変有名なサロンでしたけれど、シャンプーマンからやりましたね。
野嶋 失礼ですが、何歳から?
Aya 30歳は過ぎてましたね。逆算するとすごいことになりますね(笑)
野嶋 またアシスタントからやり直すことに気持ち的な抵抗はなかったですか?
Aya まったくなかったです。アメリカって階級社会なので、選ばなければ働けるところはいっぱいあるんですね。たとえばカット20ドルからやろうと思えばいくらでもできます。でもレベルもそれなり。それに対して一流サロンのヘアカットの料金は200ドル。高いところだと600ドルもするんですけれど、それぞれの階級のお客様しかこないわけです。せっかくアメリカにいるのですから、全部のお客様を見たかったんですね。一流と言われるサロンで働くのはどういう美容師で、そこにいらっしゃるお客様はどんな方なんだろう。それを見たかったので、そのためには一からやるしかなかったんですね。
日本のメニューの単価には、差がそれほどないですから、そこは大きな違いですよね。日本ではつけられないようなカット料金がついている。
潤一 アメリカの場合、まず値段でサロンを決めるというのがありますね。美容師にとっても、施術の値段が美容師のステイタスを決めるという部分があります。あとは場所ですね。
Aya そうそう。同じマンハッタンでもエリアによってまったく料金が違います。日本は、たとえば下北沢と青山とで、そこまで料金に差がないですけれど、向こうは全然違う。