イノベーターが
見ている未来
vol.27
その取り組みと背景、そして未来についての展望をうかがいます。
株式会社MINX world
取締役
菅野久幸さん (age.39)
「MINX銀座店」代表を務めるトップデザイナーであり、かつ社内全体の教育を統括するマネジメント役でもある菅野さん。約200名のスタッフを抱える大所帯の美容室でありながら、トレンドに敏感なお客さまに支持されるトップサロンであり続けられているのは、全スタッフにレベルの高い技術と「MINXイズム」と呼ぶべき理念が浸透しているから。それを叶える鍵となる「教育」についてうかがいます。
http://www.minx-net.co.jp/
第1章美容学校には行かずに「MINX」へ
「僕は嫌われ役になっても構わないから、
みんなで同じ方向に進める環境にしようと思った。」
菅野さんは工業系の高専(高等専門学校)出身だそうですね。そこからなぜ美容師に?
珍しいですよね。高専は5年制でプログラミングや制御工学なんかを学びました。父親もそうした技術系の仕事をしていたし、これからの時代は情報分野の需要が拡大するかなと考えて進学しました。でも3年生のときに「美容師になりたい」と思うようになりました。
先生や親御さんの反応は?
それはもう、先生からは美容はやめるよう説得され、父親には怒鳴られました(笑)。でもファッションやヘアに興味があって、何より会社で働くことにピンとこなかったんですよ。勉強していた分野を活かすには大企業に勤めることになりますし、実際にそうした求人はたくさん学校に来ていました。でも会社見学に行っても自分がそこで働くことに魅力を感じず、大きな会社の組織の力を頼るよりも、自分の力を試したい!と思ったんですよね。
学校は全寮制で、長期休暇だけ実家へ帰ることになっていました。でも父親から美容師になるのを反対されるのが嫌で家には帰らず、3年生以降の休暇中は美容室でバイトをして、オーナーの家に泊めてもらって。バイトといっても床掃除や洗濯くらいしかできませんでしたが、そのときに美容業界の業界誌を見て、「将来働くならどのサロンがいいかな」と調べていました。
そして「MINX」を選んだわけですね。どんなところに惹かれたんですか。
有名サロンはほかにも雑誌で特集されていましたが、「MINX」は当時ロック系のデザインを打ち出していて特にかっこよかったんです。創業者の高橋マサトモや、その右腕だった鈴木三枝子のインタビュー記事を見て、そのエネルギッシュさと業界への想いにすごく惹かれました。
それで「入社したい」と電話したところ、一度は断られて。たぶん鈴木が電話に出たんですが、美容学校に行っていないと伝えたら「そんな子はほかにいないから、学校に通ってからにしたら?」って。でも僕はそういわれたときに、「これはやる気を試されてるんだな」って思っちゃったんですよね(笑)。それであきらめずに履歴書を送ったところ、面接をしてもらえることになったんです。
あきらめないのがすごい!結果的には面接に合格したんですね。
僕が面接した年はちょうど美容学校が1年制から2年制に切り替わる年度だった関係で、新卒の応募者がいなかったんですよ。だから僕以外はみんな経験者という特殊な状況だったのも、幸いしたかもしれません。面接では「美容業界で何をしたいんだ」と聞かれ、「業界のパイオニアになりたい。そして僕がやりたいことを実現できるのが“MINX”なんです」と答えました。
頼もしい新人ですね。そしてめでたく採用されて、でも美容師免許はまだ持ってなかったんですよね?
通信制で勉強しながら免許取得を目指しました。同期は27人だったかな、みんな経験者。だけど僕だけ美容学校も行っていないしカットも何もできない状態。ブローやワインディング、カットの試験があるものの、1年間はひとつも受かりませんでした。でもそれから練習を重ねて、入社4年目に同期では2番目の早さでデビューできました。
すごい追い上げましたね。それだけ必死に練習したんでしょうね。
昼夜を問わず、夢中になって練習しましたね。
デビューからしばらくして、原宿のセントラル店がオープンすると同時に異動されたとか。セントラル店は150坪の大型店で、当時は世間の注目を集めていましたよね。
当時のトップメンバーのほとんどがセントラル店に集められることになって、「僕もそこで働きたい」とお願いして異動したんです。そこで僕は副店長になったんですが、これもお願いして作ってもらった役職です。店のために動きやすいように役職をつけてくれって頼みました。
副店長になって、何がしたいと考えたんでしょう。
セントラル店はスタッフが40人以上も所属していて、店長が3人と、そのほかに「代表」という役割もいて。わけがわかんないですよね(笑)。でもそれだけいた上の人たちも、みんないわゆるプレイヤー型の職人気質。背中で語って技術で引っ張るというスタイル。「組織としての仕組み化」はできていませんでした。だから僕は副店長になって、「嫌われ役になろう」と思ったんです。嫌われてもいいから“なあなあ”にせず、ダメなものはダメと叱って。みんなでひとつの方向に進んでいけるよう、軌道修正していきました。
嫌われ役としてどんなことをされたんでしょう。
たとえば、「営業後は最後までお客さまを受けていた人が片付けて帰る」決まりがありました。でも実際はスタイリストはやらずアシスタント任せにする。だからアシスタントは営業後の勉強会に遅れがちでした。そのへんについても、僕は先輩に対しても臆することなく注意しました。ほかの場面でも、先輩や上司にも意見をいいましたが、それで反発されることはなかったように思います。
反発されないのは菅野さんの人柄でしょうか?そのコツはなんでしょう。
いまもそうですが、当時から私欲のため、自分の売上のためという考えではない。「お店としてどうするのがいいことか」を基準に考えて行動してきました。だからそれが相手にも伝わって、反発されなかったのかなと思います。そして、相手の意識を変えるのは難しいので、変えるというよりは「巻き込む」。僕の考えを話して、“一緒にやりましょう”というスタンスですね。
技術はもちろん、心も高める。
MINXの強さの源「人間を育む」環境とは?