先輩女性インタビュー
サロンで働く先輩女性たち
長く活躍しているさまざまな女性スタッフに、どんなキャリアを歩んできたのかインタビューしていきます。
自分なりの「なりたい私」を見つけてください!
vol.67
専任カラーリスト第1号としてキャリア22年。
100人の後輩を育てたベテランママの歩みとは?
20年以上前に日本で初めて「カラーリスト」を置き、髪色のトレンドを創ってきた「kakimoto arms」。六本木ヒルズ店でカラーマネジャーを務める高原紀子さんは、第1期専任カラーリストとして道を切り開いてきました。「私はカラーリングと結婚しました」とまで言いながら、時短勤務を経てフルタイム復帰を果たした、社内初のママスタッフでもある高原さん。公私ともにパイオニアとして勇気を持って進んできた道のりについて、生き生きと語ってくれました。
Staff Data
高原紀子さん 46歳
カラーリスト。
「kakimoto arms」 六本木ヒルズ店勤務。
小学校1年生の女の子のママ。
日月休み(月曜日はセミナーや講師などで稼働)、11:00〜21:00のフルタイム勤務。
高原さんのLife History
★…ターニングポイント
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20歳
東京の山野美容専門学校を卒業し、「kakimoto arms」に就職。田園調布店に配属され、入社2年でスタイリストに昇格。
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24歳
★スタイリストの仕事が面白くなってきたころに、社長(現会長)に「カラーリストをやらないか」と繰り返し説得され、その度に断る。8回目に根負けして、社長と海外研修に行くことに同意した。そのときロンドンのトップサロンで垣間見たカラーリングの世界に魅了され、日本初の専任カラーリストを目指そうと決意する。
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25歳
自由が丘に日本初のカラーリング専門店をオープン、3人のカラーリストのひとりとして配属される。最初はお客さまが全く来なかったが、半年を過ぎた頃に大ブレイク。一転して超多忙な毎日に。
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29歳
青山店がオープンし、同じビルに「ヘアカラーアカデミー」が開校。それに伴って青山店へ異動し、サロンワークのかたわら、会社の後輩だけでなく、全国から集まる美容師を育成する講師として活動。
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33歳
六本木店オープンに伴って異動。
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37歳
結婚。夫が実家のある名古屋へ転勤するタイミングだったため、別居で結婚生活をスタート。仕事に打ち込む多忙な毎日は変わらなかった。
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38歳
妊娠。東京でひとりで出産しようと考えたが反対され、名古屋の夫の実家から新幹線通勤に。妊娠9カ月、出産ギリギリまでサロンに立った。
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39歳
名古屋で長女を出産。最初はすぐに復帰するつもりだったが、家族との時間を大切にするため1歳の誕生日を過ぎるまで育休を取ることに。
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40歳
11:00〜18:00の時短勤務で職場に復帰。最初は新幹線で名古屋から通勤し、長女が2歳になる直前に母娘で上京。少し遅れて夫も上京し、親子3人での暮らしをスタートさせる。
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46歳~
長女の小学校入学を機に、11:00〜21:00のフルタイム勤務に復帰。出張カラーリングセミナーなどの活動も再開した。
高原さんへのインタビュー
Q. 売り出し中のスタイリスト時代にハサミを置き、専任カラーリストを目指したのはなぜですか?
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A. 社長に連れて行かれたロンドンで「色」の可能性に魅了されたからです。
社長は海外の美容に刺激を受けて、カラーリングの専門的な技術をサロンの売りにしたいと考えていました。でも当時は「カラー=白髪染め」の時代でしたから、突然「カラーリストにならないか」と言われても訳が分かりません。「せっかくスタイリストになれたのに、一からやり直す勇気はありません」と断り続けました。すると現場を見に行こうというので、「ただでロンドンへ行けるなら」というヨコシマな気持ちでついて行きました(笑)。
カラーリングの第一人者であるダニエル・ギャルビン氏のサロンに行くと、1日レセプションの横に立つよう言われました。そこでお客さまが、見違えるほど美しく仕上がって帰っていく姿を見て本当に驚いたんです。ヘアスタイルの中でいくつもの色が綾をなし、表情が刻々と変わる。髪色に表情があるなんて、それまで考えもしませんでした。「僕は、灰色のロンドンの街並を女性のカラーリングで明るく照らしたい。日本の街もきっと変えることができるよ」という氏の言葉にも感銘を受けました。「色にはものすごい力があるんじゃないか」と感じたとき、挑戦してみようと決心したんです。
Q. カラーリストの活動が軌道に乗るまでに、どんなご苦労がありましたか?
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A. 先輩もなく何もかもが手探り。お客さまが来ない時期が辛かったです。
翌年、自由が丘に日本初のヘアカラー専門店をオープンし、3人のカラーリストが赴任しましたが、認知度ゼロからのスタート。半年くらいお客さまが全然来ませんでした。社長からは「君らは美容界のリーダーになるのだから、暇でも絶対に仲間のヘルプに行ってはいけない」と厳命されていましたが、他のサロンが大忙しなのに手伝えないのも辛かったですね。
駅前でモデルハントしてヘアカラーをさせてもらったり、自分達でスタイルブックを作ってお客さまを勧誘したりしました。それでもダメだったので、次は他店舗に出張するようになりました。そんなある日、田園調布店でヘアカラーを施していたら、サロンにいた他のお客さまが「あれは何?」「すごくきれい!」と興味を持たれて次々とヘアカラーをオーダーしたんです。その日は自分の店に戻れないほどでした。その後ヘアカラーの客数は月々3倍の勢いで伸びていき、開店1年で大ブレイク。雑誌の撮影やセミナーなどサロン外の活動や、カラーリスト志望の新入社員の教育も手がけて、以後10年間はほとんど休みがありませんでした。無我夢中すぎて、大変だったかどうかも覚えていないくらいです。
Q. 出産・育児でバリバリ働けなくなったことに葛藤はありましたか?
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A. それよりも、自分が育ててきた後輩たちのサポートがうれしかったです。
思いがけず妊娠が分かったときは「えっどうしよう?」と少し戸惑い、すぐに職場復帰するつもりで産休に入りました。でもいざ娘が生まれたらかわいくて働く気になれず、結局1歳過ぎまでお休みをいただきました。会社が何度か意思を確認しながら、常に柔軟に対応してくれたのはありがたかったです。
六本木ヒルズ店に復帰して働き始めましたが、やはり熱などで急な呼び出しは避けられません。でも育児をしていれば仕方がないことなので「ごめん、よろしく!」と葛藤を見せず潔く帰っていました。育休を取って復帰した技術者第1号だったので、良い前例になりたい思いもあったんです。年齢とともに働き方が変化するのは悪いことではない。その時々で無理なく、納得の行くようコーディネートすればいいという考えなので、ペースダウンにはこだわりませんでした。
それよりも、成長した後輩がしっかりサポートしてくれることがうれしかったです。改めて「下の子をたくさん育ててきて本当によかった!」と実感しました。今「kakimoto arms」のカラーリストは約80名。これからデビューする子も入れるともう100名になります。たった3人でスタートした日を思い出すと、感慨もひとしおですね。
この春、娘の小学校入学を機にフルタイム勤務に戻りましたが、これも自営業になった夫が放課後のお世話を担ってくれているからこそ。昼間は全く家にいない母親ですが、朝夕の食事だけは手を抜かず、きちんと作ります。毎週日曜日はもう、娘とべったり。家族との時間を大切にしています。
若手女性スタッフへ、メッセージをお願いします!
「美容の仕事は素敵」と心の底から思います。でも本当にそう思えるようになるまでは、誰もがいくつかの山を越えなければいけません。美容師になってすぐに越えられる人もいれば、いくつ越えても迷う人もいるでしょう。でもどんなときでも大切なのは、サロンワークの中で毎日ひとつずつでもいいので「今日はこれができた」「あれを変えられた」という新しい発見をしていくこと。その積み重ねがあれば、目の前に高い山が現れても飛び越えられてしまったりするものです。私もそうして20年以上美容師を続け、カラーリングを通じて多くの人たちと出会えたことが何よりの財産になっています。がんばってください!
Salon Data
kakimoto arms 六本木店【カキモトアームズ 六本木ヒルズ店】
- アクセス
- 東京メトロ日比谷線六本木駅から徒歩5分
- 創業年
- 1976年
- 店舗数
- 11店舗
- 設備
- セット面18 ※六本木ヒルズ店
- スタッフ数
- 42名(スタイリスト18名、カラーリスト8名、ネイリスト4名、アシスタント7名、レセプショニスト5名)※六本木ヒルズ店